「無じる真√N-拠点34」




 夕暮れに染まる深紅の街中を人々が行き交っている。その中をゆっくりとした足並みで歩いている彼女の前方には二つの影。
 どちらも夕日を受けて煌めく金髪の髪をたなびかせながらこの一日の中で様々な店、施設を巡遊した帰路を彼女と同じ歩調で進んでいた。
「今日もなかなか良き買い物ができましたわね」
「そうですね。麗羽姉さま」
 前を行く影の一つである袁紹が隣に並んで歩いている小柄な少女……自身の従妹である袁術と笑みを交わし合う。
 その後ろを彼女らに従うようにして顔良は歩いていた。その隣では歩く荷物がひいひいと息を荒げている。
「れ、麗羽さま……買いすぎっすよ」
「頑張れー、文ちゃん」
 荷物の隙間から僅かに覗く親友の顔を見つけて顔良は苦笑を浮かべながらひらひらと手を振って応援する。
「そうそう。これも鍛錬ですよ。鍛錬」
 張勲が指を立てながらさも当然とばかりに文醜へと告げる。
「うっせえ。美羽さまのは七乃が持つべきじゃないのか−」
 荷物の重みにより文醜の腕は腰元まで下がっている。
 その腰から上のはっきりと文醜だと識別できる部分を全て埋め尽くすように積まれている品々。
 それは全て袁紹と袁術が手に入れた戦利品だった。
 つまり文醜を今現在苦しめている荷物の一部を持つべきなのは涼しげな顔で歩く張勲である。
「いえ、猪々子ちゃんがもっと強くなることを所望していると耳にしたのもので。それでしたら少しでもお手伝いして差し上げるべきではないかと思ったので涙を呑んでお嬢さまの荷物をお任せしたんです」
「そ、そうか……ぐ、重っ。あ、ありがとな」
「文ちゃん……」
 どう考えてもわかりそうなことがわかっていない純粋なのか馬鹿なのかわからない親友に顔良は目頭が熱くなる。
「それに、私はか弱くて繊細ですからそんな大量の荷物を自分で持ちたくありませんしね」
「おい! 言ってることが違うじゃね−か!」
「うるさいですわよ、そこぉ!」
「なにを騒いでおるのじゃ!」
 前をご機嫌な様子で歩いていた二人が半身を振り返り文醜に一喝する。
「えー、あたいのせいじゃ……」
「おだまりなさい。まったく、これだから猪々子は」
「躾がなっておりませんねぇ。麗羽姉さま」
「だまらっしゃい。最近の猪々子はわたくしでも手を焼いているんですの……力が有り余っているというかなんというか……はぁ」
「ちょっと、麗羽さまだけには言われたくはないっすよ! ……って、うわわ」
 ため息混じりに問題のある教え子を見るような瞳をする袁紹に文醜が強く反論するが、勢い余ったせいで荷物がぐらぐらと揺らいでしまう。
「ちょ、ちょっと文ちゃん。危ないよ」
「わーってるって、よ、ほ、さっと……ほれ、この通り」
 ぐらついて一気に崩れてしまいそうな商品の山に動きを合わせるようにして見事な体裁きを見せる文醜。
「お見事! 文ちゃん」
「へへっ、どんなもんよ!」
 雪崩の発生を事前阻止したことに文醜は胸を張る。だが、その動きによって一番上の荷物がぽろりと落ちる。
 その先には
「あいたっ!?」
 張勲の頭があり、見事直撃。
 その衝撃で張勲はしゃがみ込み、落下してきた荷物が頭から転げ落ちて彼女の腿へと着地する。
「だ、大丈夫ですか?」
「うう、ちゃんとしてくださいよ。たんこぶ出来ちゃったらどうするんですか」
「うっせ。罰が当たったんだよ」
 頭を抑えてかがみ込んでいる張勲を一瞥するやいなやついと顔を逸らして文醜は先へと行ってしまう。
「もう、文ちゃんたら……しょうがないなあ。ほら、それ持ちますから。すぐ追いかけましょう」
 すたすたと一人で進んでいく文醜に嘆息しながら顔良は張勲が座り込む際に腿の上で受け止めていた荷物を取り除く。すると、
「あら? いいんですか? それじゃあさっさと行きましょう」
 張勲はけろっと表情を一変して駆け出していく。
「……え? え? ええ! ちょっと待ってー」
 突然の事に呆然としていた顔良はふと我に返ると慌てて彼女たちの後を追うのだった。

 †

 相も変わらずわいわいと賑やかな様相のままに歩き続けていた袁紹一行はようやく本通りへとでる。
 夕飯の時間もあってか料理店が集結している区画からは鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが漂い、人々は早めに一仕事終えた者たちがぞろぞろと集団で食堂街へと向かっていく。
 そんな人の流れの中に顔良たちは見覚えのある後ろ姿を見つける。
「大丈夫だったかい?」
「うん……」
 多くの少女、そして顔良もまたご主人様と仰いでいる……といっていいのか甚だ疑問は残る少年、北郷一刀だ。彼は中腰の姿勢を取り子供の顔をのぞき込むようにしている。
 ただ、今いる位置からでは残念なことに少年の顔はよく見えない。どうやら袁紹も気になっているらしく先ほどから首を引っ込めたり伸ばしたりとせわしなく動かしている。
「むむ、見えにくいですわね……」
「少し移動してみませんか、麗羽姉さま?」
「そうですわね。ここは美羽さんの言うとおりにするのがよさそうですわ」
 何故か抑えめの声で肯きあうと、袁紹らはささっと位置を変えて身を隠すのにちょうど良い場所へと移動し、一刀たちの観察に勤しみ始める。
 顔良と張勲も仕方なくその後に続いて慌てて物陰に潜む。
「確かにここからならよく見えますねぇ」
「ホントだ、何してるんだろ?」
「それをこれからしらべるのではありませんの」
 肩を竦めて長嘆する袁紹の元へ巨大な影が迫りくる。その足取りはいやに頼りない。
「うわっとと、麗羽さま……そんな急に動かないでくださいよ」
 大量の荷物で動きを制限されていた文醜だった。
「猪々子、文句なんてどうでもいいですからさっさとしなさいな」
「へーい……おっとと」
 大量の荷物と格闘しながら文醜がよろよろと歩み寄ってくる。正直、通行人の視線が集まっているため一刀にもばれてしまうのではと顔良は不安になる。だが幸いなことに一刀の後方にいるためか少年には気付かれていないらしい。
「ここなら、よく見えますわ」
 確かに袁紹の言う通りで、今いる位置からならば一刀、そして彼に対する位置にいる子供とその親らしき女性も顔がよく見える。一刀は笑顔を浮かべているが女性の方は眉尻を下げている。一刀に対する言葉に窮しているようだ。
「……あ、あの!」
「なんですか?」
 思い切って口を開いた女性に一刀は顔だけを向ける。畏まってしまっている女性を安心させようと考えたのか、一刀の顔には穏やかな表情が浮かんでいる。
 その効果が発揮されたのか女性は僅かに肩の力を抜いて口を開く。
「その……どうもすみませんでした。我が子がとんだご無礼を……そのうえ、このようなものまで頂いてしまって」
 そう言って頭を下げる女性の横では子供が棒の先についている球体状に模られた飴をなめている。それを視認した瞬間、袁紹と袁術の身体がぴくりと撥ねる。
「あ、あれは仲破茶通婦子=c…あの男、そんな貴重品を……このわたくしだってあまり口にしたことがないというのに!」
「妾も手にしたことなど数えるほどしかないのじゃ!」
「お、お二人とも静かに、しーっ、しーっ」
 顔良は興奮して声が昂ぶっている二人をなんとか宥める。
「わかっておりますわよ……まったく、わたくしにはたまに買ってくるかどうかだというのに」
 今にも金切り声を挙げそうな怒れる袁家の二人を慰撫しつつ顔良は再度子供の口元にある飴を見る。
 仲破茶通婦子(ちゅぱちゃつぷす)、それは公孫賛、曹操の連合が袁術の建国した仲を破ったと民が噂し始めた頃に考えつかれたために付いた名前。
 この商品の作成には実のところ袁紹も関わっていた。その為、袁術以上に苛立ちを覚えているのだろう。
 顔良は震える拳を握りしめる主君を見ながら当時のことを思い起こしていた。

 †

 それは徐州侵攻戦も終えて落ち着いたころ、一刀によって唐突にもたらされた話。
 顔良は鳳統と共に北郷一刀に呼ばれて厨房を訪れていた。
 二人は到着するやいなや、一刀から一旦話をしようと言われてその言葉に従うようにしてそれぞれ席へと腰を下ろす。
 それを見届けると一刀は話しにくそうにしながらも語り始めた。
「実は、街の菓子店で新しい商品を出したいから知恵を貸してくれって言われてさ……」
「へえ。そうなんですか」
 頭を掻きながら苦笑いする一刀に顔良は口元を綻ばす。
 街の活性化は常に考えなければならないことで今回の件も仕事だから受けたという面もあるには違いないことなのだろうが、それ以前に頼まれれば断りにくいという少年の性分が強く関係しているのを察したからである。
 一刀は腕組みをすると、顔良と彼女同様に呼び出されたもう一人である鳳統を交互に見やる。そして、何度か頷くと笑みを浮かべる。
「ああ。だから是非とも斗詩と雛里に手伝って貰おうかと思ってさ。二人とも料理上手いようだしね」
「……あの、そんなに上手じゃありませんよ?」
「いや、雛里の造ってくれたお菓子は絶品だった。間違いない」
 謙遜する鳳統に一刀は勢いよく首を振って否定する。食したときのことでも思い出したのか頬をだらしなく緩んでいる。
「……あわわ、そ、そんなことぉ……あぅ」
 鳳統は頬を染めるともじもじと指を絡ませながら俯いてしまう。だが、その顔にはどこか嬉しそうな色が含まれているように顔良には見える。
「はは、照れなくてもいいじゃないか」
「あわあわ……あわわー」
 眼を回してしまいそうな程に動揺している鳳統とそれを優しい表情で見つめる一刀。何とも言えない甘い空気が流れ始めているのを肌で感じ始め顔良は席を立とうとする。
「どうやら、私は必要では――」
「いやいやいやいや、斗詩さん。貴女はわかっておりませんわ! 良いですか、もっと自分に自信をお持ちになりなさぁーい! ……喋りにくいなこの口調。おほん、斗詩だって十分過ぎるほどに上手い料理を作ってくれるじゃないか」
 顔良の腕を掴んだ一刀が「まあまあ」と宥める言葉を口にしながら彼女を座らせる。ふっと息を吐き出すと顔良はゆっくりと浮かせた腰を再度下ろす。
「ふふ、どうもありがとうございます。でも、麗羽さま本人が見たら怒られますよ?」
「うむ。恐らくは二度とすまい。自分でも気持ち悪かったし……もう少しで貂蝉みたいになりそうだし、何よりもこうやって変なことしてると本人が現れそうだ」
 そう言うと、一刀はぶるりと身体を震わせてわざとらしいほどに大きな動きで周囲をじろじろと見回して警戒している。
「……え、えぇと、ご主人様? 一体どうなされたんですか?」
 明らかに挙動不審過ぎる一刀の様子に鳳統が不思議そうに小首を傾げる。それに伴って頭のとんがり帽子が僅かにちょこんと傾く。
 そんな鳳統に手を振りながら一刀は苦い笑みを浮かべる。
「いや、なんでもないよ。それでだ、我が勢力の中でも料理の腕を競わせたら三本の指にはまず間違いなく入る二人に来てもらったのは他でもない……ただ、菓子作りのためってわけじゃない。新しい飴の開発について話を聞かせてほしいんだ」
「そうですね……どれ程お力になれるかわかりませんけど。構いませんよ」
「そうか、ありがとう」
「……あ、あの。私も構いません」
 照れていたために反応が遅れた鳳統も慌てて顔良の後に続いて一刀に答える。
「雛里も助かるよ。それじゃあ、早速だが……普通の飴を作ってみてくれ」
「わかりました」
 顔良と鳳統は顔を見合わせると立ち上がり準備に取りかかる。調理台へと向かい器具と原材料を並べていく。もっとも、さほど必要なものがないためこざっぱりとしている。
「原材料は基本、砂糖と水だけですね」
「ふむふむ、だからこそ市場に出回りきってるんだな」
 二人の肩越しに一刀がのぞき込んでいる。喋るたびに身長差も相まって耳元に息がかかってくすぐったい。
「……そうですね。予算的にも調整がそれなりに効きますから」
 耳を赤くした鳳統が鍋に砂糖と水を入れながら一刀に答える、顔良はそれに合わせて火をくべて煮込み始める。
「作り方も簡単なものなので自分で造る人もいると思います」
「なるほど、お手軽だしそれも可能なんだろうな。うん」
 また息がかかる。
 背筋がぞくりとする。
 小さく震えながら顔良がちらりと横を見ると鳳統も寸分違わぬ動きをしていた。
「……た……ただ、この時勢ですからそういった事に時間を割ける家庭というのもあまり……」
「親が子供におやつとして作ってあげられる……そんな穏やかな時間を人々が送れるようにするのが俺たちの仕事なんだよな」
 一刀の言葉にそれぞれ口を閉ざしてしんみりとする。沈黙の中で鍋に入れた砂糖と水がうっすらと色づいてくる。
 それを確認すると顔良は鳳統へと視線を向ける。視界の隅に一刀の口元が見えたが意識から外す。
「うん、そろそろじゃない? 雛里ちゃん」
「そうですね。そろそろ回しましょう」
 そう言うと鳳統は鍋をゆっくりと回し始める。中身を下手にかき混ぜないよう気をつけながら色合いを均等にしていく。
「……うん、こんな感じ」
 頷くと鳳統は火を止める。
 既に用意してある型へと流し込んでいく。星や木、それにもう一つの計三つの型に注ぎ終わると二人は経過を見守る。
「へえ、良い感じにできてるな。匂いも甘さを感じさせる」
 一刀が鼻をひくつかせながら表情を緩めていく。そんな様子に頬を綻ばせながら二人はまだ生暖かい状態のまま中身を型から外していく。
「ご主人様、できましたー」
 皿にのせた飴を鳳統が卓へと運び一刀がそれについていく。その間に顔良は別作業を行う。
「さて……ついでついでっと」
 そうして鍋へと向き合うと顔良は再び火をともす。
「俺は、どれを食べて良いのかな?」
「それじゃあ、これで」
「お、ハートか。何故だろうな形だけで凄く嬉しいのは」
「……うふふ。ご主人様が喜んでくださって良かったです」
 楽しげに会話する二人の元へ顔良はお盆に湯飲みを乗せてまま歩み寄る。
「どうぞ、ついでですが……」
「お、ありがと。飲み物まで用意してあるとは」
「いえ、ついでですよ。ついで。それよりも話を再開しませんか?」
「そうだったな。忘れてた」
「ええ!?」
 頭を掻いて苦笑いを浮かべる一刀に顔良は口元に手を当てる。
「いやあ、最初は調査のつもりだったんだけど……楽しみになってきちゃってさ」
「仕方ないですね、もう。……ふふ」
「いやはや、面目ない。あっははは」
 三人は笑い出汁場は和やかな空気に包まれていく。
「ずず……ん、このお湯……なんだか身体が温まるな」
「実はそれ、飴の残りを使用してるんですよ」
「そうなのか? でもそんな甘さは感じないけどな」
「生姜があったので、生姜湯を作ってみたんです。本当は砂糖も別のものが良かったんですけどあくまで余り物を基にしただけですから」
「……もしかしてはじめから考えていたのですか?」
 一刀を真似て生姜湯を飲んだ鳳統が目を丸くしているのに対して顔良は首を横に振る。
「ううん。でも、飴って型に入れた後でも余りが出ちゃうでしょ? よくそれでいろいろと作ったのを思い出して、ね」
「ふふ、なるほど。そうですね私も覚えがあります」
 うんうんと何度も頷く鳳統と顔良は顔を見合わせると二人で微笑みあう。
「やっぱり二人に相談することにして正解だったな」
 頬杖をつきながら一刀がにこりと笑う。
 場に流れている空気が暖かい、それはまるで生姜湯を飲んだ後の身体のようだった。
 それから一刀の考えに顔良と鳳統が補足を加え、新たな飴の完成案は出来上がったのだが、そこに二つの影が近づいてきた。
「なにをしておりますの?」
「こんなところにいたのかよ。斗詩」
 それは顔良のもう一人の主、袁紹。そして、親友の文醜の二人だった。
「二人ともどうしたんだ?」
「斗詩さんが、いなくなったと猪々子が騒ぐものだからこうして探しに来たんですわ」
 自慢の巻き髪の一部を手にとると袁紹は毛先をくるくると弄りながらため息を漏らす。
「ぶ、文ちゃん……」
 親友の暴走に顔良は恥ずかしさと困惑が入り交じる複雑な感情によって重くなった肩をがっくりと落とす。自分を大事に思うのは良いがあまり大騒ぎはしてほしくない。
「それで何をこそこそとやっておりましの?」
「べ、別になんでもないさ」
 一刀が代表して答えるが自然を装っているのがばればれだ。どうやら袁紹はそれでも気付いていなのか納得している。だが、文醜は眉を潜ませ訝るように一刀を見ている。
「まさか、嫌がる斗詩を強引に連れてきてお茶に付き合わせたんじゃ……」
「してない! そもそも自慢じゃないが腕っ節にかけては二流か三流だ」
「ホント、自慢になりませんわね……」
 肩を竦めながら袁紹がやれやれと首を振る。
「つかさ、アニキは腕っ節だけじゃなくて頭の方も一流じゃないっしょ」
「猪々子にだけは言われたくなかった……」
 机に頭を伏せる一刀。その横顔にキラリと光るものがあった。
「確かに……猪々子におバカ扱いされるのは流石に屈辱ですわね……」
 瞼を閉じて首を左右に振る袁紹。
「なんすかそれ。麗羽さまだってあたいと似たようなもんじゃないっすか」
「なっ!? 何を仰りますの! 言うにことかいて猪々子と同等だなどとなんたる暴言! このわたくしの聡明なる頭脳をそんなカチカチに鍛えられた筋肉脳と一緒にしないでもらいたいものですわ」
「いやー、鍛錬を欠かさないあたいでも脳まではちょっと鍛えられないっすよ」
「多分、そういうところを揶揄してるんだと思うよ……」
 文醜が頭を掻きながら照れ笑いを浮かべる姿に顔良は嘆息する。

 †

 結局、詰め寄られた一刀を救うため顔良と鳳統から袁紹たちへの説明がなされることとなった。
 一通り事情を話し終えるまで袁紹は椅子に座ったままじっとしている。
 それを不気味に思いながらも顔良は説明を最後まで続けていく。
「……というわけだったんですよ」
「理由はわかりましたわ。ですが、何故、この袁本初には声をおかけにならなかったんですの?」
「え? いや、実際に食べたことがある中でも腕が立つのは斗詩と雛里だったのだからしょうがないだろ?」
「ならば、このわたくしの腕前を直に味わえばよいのですわ!」
「いや、遠慮させてもらう」
 一刀の反応は白馬義縱の騎射以上の速度だった。袁紹はそれが気にくわないのか険しさを眉間の皺として表出させる。
「何か不服でもおありだと仰りたいんですの?」
「いや、ほら、もう商品の話は二人に任せることで決まっちゃったわけで……今更、腕前を見せられても意味がなくなるんだよ。麗羽の鉄人料理師並の敏腕をただでふるってもらうのも悪いだろ?」
 一刀がそれらしい説明をするが顔良にはどう考えても本音を上手く包み隠そうとしているようにしか見えない。
「そうですわね。それならばしかたがないですわ」
 顎に手を添えて袁紹が首を縦に振ると一刀は胸をなで下ろす。
「ほっ、よかった……」
「で、す、が!」
 袁紹は自慢の美貌と高貴さを構成する要素の一つである柳眉を逆立てると一刀を刺し殺さんばかりの鋭い視線で貫く。
「まだ何か担うことのできる役割というのはあるはずですわよね?」
「え? あっ!? そ、そうだ……麗羽にはデザインを担当しても、貰おうかな?」
「でざいん? なんですの、それは」
 袁紹の表情を支配する険しさが僅かに緩和される。
「えっと……意匠だな。包装紙とか、飴の形とかについて意見を聞かせてほしい。今までとは違う市場に出す予定だからな。ちょっと普通とは違う人の話は参考になる」
「あらあら、聞きましたか皆さん。一刀さんったら、どうしてもわたくしを必要となさっているそうですわ。困りましたわね」
 眉尻を下げ、困惑を露わにしている袁紹、その口元はにやにやと歪んでいる。
「別に、興味ないならそれはそれで――」
「よろしくてよ! この袁本初の溢れる才能をお貸しして差し上げますわ。おーっほっほっほ!」
「あ、そうですか……」
 一刀は深々とため息を漏らすと力が抜けたようにがっくりと項垂れる。
 この先の彼の苦労を思うと顔良はひきつった笑みが自然と浮かんでしまう。

 †

 実際に一刀はそれから何日にもわたって袁紹との話し合いを継続していき、彼は相当な疲労感に見舞われることとなったようだが無事、仲破茶通婦子≠ヘ日の目を見ることとなった。
 試験販売は新たな流行を追い求める層と高級志向の富豪を中心に狙いにあった客層に上手く響いたらしく売り上げは好調。正式に流通が始まり一刀の役目はその後に関しては様子見に収束し一先ず落ち着きを見せることとなった。

 †

 仲破茶通婦子≠フ誕生秘話を顔良が思い出しているうちに一刀と親子の会話が済んでいたらしく会話が途切れた。
 母親が再び一刀に対して頭を下げる。
「本当にすみませんでした」
「いえいえ。もうよそ見して走るんじゃないぞ」
「うん。ごめんね……お兄ちゃん」
 どうやら原因は幼い女の子と衝突したということだったようだ。よく見れば一刀の特徴でもある白い服に多少の真新しい汚れが付いている。
 女の子の方は仲派茶通婦子≠手にしたまま明るい笑みを浮かべて一刀を見ている。こういったささいなことが積み重なって北郷一刀に対する民の親近感は増していったのだろうと顔良は自然と分析していた。
「よし、良い子だ」
「きゃあー! きゃあー!」
 一刀がニカッと快活に笑って女の子の頭をわしゃわしゃと撫でると彼女は少し乱暴な扱いに悲鳴をあげながらも満面の笑みを浮かべている。
(ふふ、なんだか幸せそう)
 母親も顔良と似た心境なのだろう微笑ましげに二人のやり取りを見守っている。
 その時、顔良の耳へと妙な音が入りこんでくる。
 ギリッ
 ギリギリ
 ギリギリギリギリギリ
 ギリギリギリギリギリギリギリ
 ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ!
「な、何?」
「あれだよ、あれ……」
 そういって文醜が顎で示す方向へと視線を巡らせる。二人の袁家当主の口元からこの不快音が出ているらしい。
「なんなんですの……あのだらしのない顔は……」
「うぬぬ、なんと情けないことじゃ……主様よ」
 袁紹と袁術は肩を竦めてふうと息を吐くが、それは非常に荒々しく鼻腔から発せられたものだった。
「あらあら、なんだか面白……いえ、興味深いことがおきそうですねえ」
「いま、面白そうって言ったろ」
「なんのことですかー? 耳まで使いものにならなくなっちゃったんですか?」
「耳はまだまともだ。悪いのは頭だけだっつの……あと、胸も」
「文ちゃん……」
 しょんぼりとする文醜の肩を顔良はやさしく叩く。
「なんでなんだろうな。あんな根性ひん曲がったやつでさえ立派なものを持ってるのにあたいは……」
「まあまあ。人それぞれってこどじゃな――」
「きっと、いつも一緒にいる人の影響じゃないですか?」
 顔良の言葉尻に重なるようにして張勲が小首を傾げる。文醜は俯きがちだった顔を上げて彼女を見る。
「影響?」
「そうですよ。ほら、私はいつもお嬢さまと一緒ですから……ね?」
 そう言うと張勲はじっと袁術の一部へと視線を釘付けにする。それを追うように瞳を動かした文醜がふるふると荷物を持つ手を震わせる。
「ということは、そうか……そうだったのか!」
「ちょ、文ちゃん。まさか、麗羽さまに――」
「斗詩!」
「え? 私? 私なの?」
 急な名指しに驚く顔良の方へ文醜は強張った表情を向ける。
「あたいのおっぱい取ったんだな?」
「え……いや、その……」
「取ったんだな?」
「な、何を……」
「取ったんだなー」
 完全に目が血走っている文醜の容貌に嫌な汗が顔良の背筋を伝う。
「返せ! あたいのおっぱい返せー!」
「ちょっ!? 声が大きいって」
 傍を歩く人々の視線が顔良と文醜の間を行ったり来たりしている。一刀が気付かないのが不思議なくらいだ。
「あら、行っちゃいましたよ。一刀さん」
「え?」
 張勲の声に顔良も瞳を動かすと、確かに先ほどまでいたはずの場所に一刀の姿は無かった。
「もう、文ちゃんが変なことしてるから見失っちゃったよ」
「あたいのせいじゃない。斗詩のおっぱいのせいだ」
「わけわかんないよー」
 口先を尖らせてすねる文醜に顔良は悲痛な叫びを口にする。
「……ですわ」
「主様……」
 顔良が見た時、二人の袁家は何やら固い決意を表すように拳を握りしめるところだった。
 何やらやっかいなことが起こる……そんな予感めいたものが顔良の泰山のごとくふくよかな胸に去来する。
「大丈夫かな……ご主人様」
 すっかり静まりかえった辺りに虫の声が響き渡っていた。